無限を切り取る🖌髙島野十郎画集『作品と遺稿』

2018-07-26画集・画文集

髙島野十郎画集『作品と遺稿』 求龍堂 2008年初版

 

髙島野十郎(たかしま・やじゅうろう)の絵を観たのは、もうずっと、何年も前の福岡市立美術館だった。

有名なサルヴァドール・ダリの絵があって驚いたから、たしかにそこだったと思う。野十郎の絵は小さなスペースに、他の絵と一緒にほとんどひっそりと、何気ない感じで一枚だけ展示してあった。

私は細密に描かれている本草学の本のような日本画が好きで、その時もはじめ、野十郎の絵のそういう細密な表現が気に入った。画面が全体になんとなく明るく、水辺の様子だったと思う。その絵を観ているとなんだか気持ちがよく、ずっと観ていたくなる。

展示室にある全ての作品を丹念に鑑賞した後、私は特別なお気に入りにするように、その時もまた順路を逆行してその絵の前に戻った。(順路を逆行するのはよくないと思うが、このときは他に誰一人いなかったし、多くの人でごったがえしている東京の美術館のような施設ではしないのでどうか許してほしい)

見れば見るほど気分が良くなる。この世界にずっといたい、と眺めながら思う。

でも永遠にそこにいるわけにいかないので、うかつにも鉛筆を持っていなかった私は、その画家の名前を頭の中にメモした。忘れてしまいそうだから、歩きながら何度もなんども頭の中で唱えていたことを覚えている。そんなに必死に覚えていたいと思った画家ははじめてだった。

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それから何度もいろいろな展覧会に行ったけれど、野十郎の絵には会えなかった。ずっと、もっと観たいと思っていた。でもなかなか会えなかったので、寡作な画家なのか、売らなかったのか、どちらにせよまたあの美術館へ行くしかないのだろうと思いこんでいた。

でも去年ふっと、もしかしたら画集があるんじゃないかと思いつき、(なぜこれまで思いつかなかったのか!)、検索してみたら数冊の本が出ていた。画集としてはたぶん2冊。できるだけたくさんの絵が観たかったので、高価な方を購入した。

とても美しい印刷で、ほとんど鬼気迫るほどに静謐な絵が時代ごとに133点収められている。

薄い皮の下の充実した果肉の様子がありありとわかる柿、その香りが鼻をさし唾を飲むほど瑞々しいりんご、目で見てもこれほどは見えないだろうと思うくらいに描き込まれた草、降り積もる一瞬を切り取った雪の原、それから連作のような『月』と『太陽』と『蝋燭』。

私の好きだったあの絵は、しかし、このなかにあるかどうか、何度見てもどうしても私には探せなかった。索引によるともしかしたらそれは『早春湖畔』という絵なのかもしれない。

でも、画集や図録の中に、自分が感動した絵を探すことができないというのは、他の人のことはわからないけれど、私にとっては度々あること。たとえばマルク・シャガールの『墓地の門』やゴッホの『サン=レミ療養所の庭』なども、展覧会でいちばん感動したのに図録でそれを探すのは一苦労だった。ふたつとも、タイトルが特徴的だから探せたので、なにか他の名前をつけられていたら探せずに終わったかも、と思う。

展覧会直後に図録で見てさえそうなので、もうずっと何年も前の一度だけ観た野十郎の絵が画集の中で探せないとしても、不思議ではないかもしれない。

だからやっぱり絵というのは、実際にこの体をその前に運んで、自分の目で見なければ、それが自分のための絵かどうかはわからないんだな、と私なんかは思っている。

本物の絵の気迫は、印刷にはうつらないのだと思っている。

色や形以外の何かが篭っていて、それが私の何かを揺すると、他より際立ってうつくしく視えるのか。。

それでも野十郎の絵は、本の中にあっても、ずいぶんおしゃべりだなと思う。ページを繰りながら、しーんとした世界に落ち込むような心地よさを感じる。どれを観ても、違和感なく自分に馴染む。たぶん野十郎は描きたいことがあまり変化しなかったのかもしれない。

だから特にこれ、と選ぶことが難しい。

目で見るよりも明瞭に、緻密に描くことで、まるで無限を切り取っているように感じる。

有限なものは無限を表現し得ない。野十郎の絵にはどれも、そういう意味での無限があると思う。だからこんなに惹かれるのだろう。それは私がよく考えるテーマの一つだから。

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実は私は絵を見るとき、あまり作家自身のことを知りたいという気が起こらない。時代背景にもかなり疎い。

絵を解釈するより、ただそれを観た自分の感覚を感じきりたいという欲求がなによりも強い。

だから絵を見るのは好きだけど、何年鑑賞しても、私の知識はほとんど増えない。絵をより深く理解するためには、どんな時代に描かれてその人がどんな環境で育って、どんな気持ちで描いたのか(とされるのか)がだいじなのかもしれないとたまに思うし、時にはそういう情報を調べたい時もあるけど、だいたいわがままに感じさせてもらって、おしまい。

この記事も、野十郎の情報はあんまりない。

でももしそういうことが知りたかったら、この本の巻末にある解説はとても役立つものだと思う。

この記事を書くにあたって、さっきすこしだけ読んでみたけれど(214頁まで)、野十郎が直接に知り合って親交を深めたという監修の川崎浹(かわさき・とおる)先生の文章はとてもきれいで興味深いものだった。評伝も書かれているそうなので、読んでみたいとまで思った。

共同で監修された西本匡伸(にしもと・まさのぶ)さんの文章では野十郎の一生が綴られている。年譜もあるのでいつどのような作品を書いたのかわかりやすいのではないかと思う。

また、途中に掲載されている野十郎が書き残した『ノート』の全文掲載がとてもいい。これは絵の創作のためのメモなどではなく、詩作のあとだった。これを読むと、絵になにを描こうとしていたのかが感じられる気がする。なにを求めて生きていたのかが書いてある、と思った。

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『ノート』のあとには野十郎の自画像が収められている。『傷を負った自画像』がとても印象的だ。人物の肖像画も後のページに載っているが、野十郎は人物を描いてさえもこうなんだな、と思った。どれだけ見つめて主観を捨てたら、こんな風に自分の中のものを描けるのだろう、と思った。

とても深くたのしむことができる画集だった。

 

 

 

この記事を書いていて、もしかすると好きだった絵を印刷物の中に探せないのは、自分の好きだった部分をそこに見出せないからなのかもしれない、とふっと思った。客観性に乏しいから、人の見ているようには『もの』が見えないのかもしれない、と。

すこしかなしくなったが、でもすぐにそれはほんとうじゃない、と思い直した。

何かを表現する時に、それがどこまで意図したように人に伝わるのか、というのは、これもまたよく考える面白いテーマの一つだ。

私は自分がこういうふうに作品(絵だけでなく本や音楽なども)を観るので、自分がなにかを作る時にも、自分のことを何一つ知らない人たちに作品だけでどこまで通じるか、毎回試している。(なにを作りどこで公開しているのかは自分の情報を出さないという目的のために書けないが、時にはそれは数千〜数万人に届くこともある、とだけ書いておく)

そうして驚いたことに、いままでの結果では、細かな演出の意味などはほとんどの人には無視されるとしても、一番言いたいことだけはかなり多くの人に伝わっていると感じられた。さらに驚いたことに、少なくとも必ず一人は、私が思ったままの言葉を使ってその作品を評価する人がいたのだ。

私の作った拙いものですら、思いを込めれば一番言いたいことは伝えることができる、ということは、人々に愛されながら時を経て異国の地に飾られ、ことほど耳目を集める絵が、一番言いたいことを言えてないはずがない。

今この記事を書くのにも、途中まで読んだ解説の中に、自分の感じ方は間違ってなかったと思わせる文章があった。

だからつまり・・・。

これからも私は、自分の見たいように個人的に絵を観たいと思う!